2012年2月22日水曜日

生きるまでいきたらば 死ぬるでもあろうかとおもふ・・

僕の大好きな前田慶次郎(K-1選手じゃないですよ・・。武将のほうです)が詠んだ唄です。

こんな風に生きられればなぁって思いますね。自然に。この人に言ってる意味は自由勝手に生きているという意味ではないですよね。本当に自然に。そして死をも自然に受け入れる。でもそれには本当に強い心がないと無理。でも男に生まれたからには近づきたいなぁ これが好きで息子にK次郎と名づけたんです。僕にはなれなかった人間になってほしくて。人と同じをよしとせず、潔く、多少の事ではぶれることのない男らしい人間になれるようにって。

【原歌】

「抑批無苦庵は 孝を勤むべき親もなければ 憐れむべき子もなし 。
  こころは墨に染ねども髪結ぶがむずかしさに つむりを剃り
  手のつかひ不奉公もせず足の駕籠かき小揚やとはず
  七年の病なければ 三年の蓬も用ひず
  雲無心にして岫を出るもまたをかし 。
  詩歌に心なければ月花も苦にならず
  寝たき時は昼も寝 起きたき時は夜も起きる。 
  九品蓮台に至らんと思ふ欲心なければ 八萬地獄に落つべき罪もなし 
  生きるまでいきたらば 死ぬるでもあろうかとおもふ」

【訳】
「そもそも、私こと無苦庵(慶次郎)には、孝行をつくすべき親ももういなければ、憐れみいつくしむべき子供ももういない。わが心は墨衣を着るといえるまで僧侶には成りきらないけれども、髪を結うのが面倒なので頭を剃った。手の扱いにも不自由はしていない。足も達者なので駕籠かきや小者も雇わない。ずっと病気にもならないので、もぐさの世話にもなっていない。そうはいっても、人生思い通りにならないこともある。しかし、山間からぽっかり雲が浮かびあらわれるように、人生予期せぬこともそれなりに趣があるという ものだ。
詩歌に心を寄せていれば、月が満ち欠け、花が散りゆく姿も残念とは思わない。
寝たければ昼も寝て、起きたくなれば夜でも起きる。
極楽浄土で良き往生を遂げたいと欲する心もなければ、八万地獄に落ちる罪も犯してはいない。
寿命が尽きるまで生きたら、あとはただ死ぬというだけのことであろうと思っている。」

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